本堂

 
ご本尊 :聖観世音菩薩
開創 :天文14年(1545年)
開山 :宣翁全忠大和尚
住所 :〒437-0214 静岡県周智郡森町草々谷968
TEL :0538-85-3630(FAX共通)
 
香勝寺は天文14年(1545)2月18日、一ノ宮領主、武藤刑部守氏定公が寺領を寄付。
崇信寺八世全忠大和尚を歓請し開山。札所本尊白龍頭観世音菩薩は、大正時代の中頃、草ヶ谷の観音坂をある行者が通りかかった時に、「この土中には観音さまが埋まっておられるので、すみやかに掘り出して供養なされるがよい」と申された。
その地主は病に伏していたが、掘り出して供養したところ、病は癒え、商いは繁昌したと云う。その後、観音さまは香勝寺の境内に安置されていたが、昭和52年2月18日、開山の朝霧の中に、突然「人心同仏」と仏法根元の教えが、文字で描き出され、同年6月26日夕刻、現住職の寺族の眼前に、白龍頭観音はお姿を現わし、又58年8月1日には、現住職の口を借り「人の苦しみは、自分を可愛がる心が元」と、お示しになり、以来白龍頭観音の預言の寺として、縦横無尽にその神通力を、お使いになられ、人々の諸々の苦しみを和らげて下さる功徳無量にして霊験あらたかな観音さまとして、信仰するもの日々に多く、亦四方礼拝の奥義に目覚め、安らぎへの道に進むもの多いと云う。(大祭2月 第3日曜日 例祭毎月18日)


白龍頭観音堂

 


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水子地蔵

 

 
鹿苑山香勝寺記録
開創 天文14年(1545)今より460年前
開山 宣翁全忠大和尚 元亀元年5月29日遷化(和尚64歳)崇信八世隆室修翕大和尚の嗣子九世宣翁全忠大和尚なり、若して当山に請せられ後に崇信に晋住し香勝寺は弟子覚山宗本和尚に譲り崇信九世となり、その後又、崇信寺を覚山宗本和尚に譲り森 、随松寺に隠居して遷化せらる随松寺過去帳にあり。
覚山も随松寺に隠居せらる。これは文明ならずそれは後に草ヶ谷宗松院中山寺二寺の小末を開かれ宗松院に於いて遷化せられし故なり、霊鏡山中山寺は養老年中より阿弥陀堂なりしを中山寺となしたものなり。
当香勝寺は他宗寺院の転宗したものでなく純然たる曹洞として開創なりしものと思考せし御開山は自己開山にて本師を請せずし伝法はその後なり、伝法は弘冶元年11月7日也。世寿38歳にて香勝寺開創覚山和尚伝法は永禄9年4月8日也。天正16年8月9日遷化、即ち開山は香勝寺在住10年崇信在住11年にして隠居(59歳)


武藤家の墓

開基 武藤刑部尉氏定公 刑部少輔又刑部
  法名 香勝寺殿興岩道清大居士  一宮宮司 一宮領主である
天正9年3月22日高天神城落城之日戦死
当武藤家の初祖は武藤五郎称して坂東の武藤の分派にて、長兄は武藤太郎頼忠(武蔵国)、次兄は武藤小次郎頼資にして頼朝の臣にして九州の少貮氏となる、元寇の乱に奪戦せし人なり、三男の五郎は頼朝の臣、安田義定の五家老の一人にして、義定が治承4年遠江守に任ぜられし時此処一宮領の代官(目代)として当地に住み、安田遠江守義定息の些細な罪により鎌倉に呼びつけられて建久5年8月19日に梟首せられた。翌月20日五家老殉死。
遠江守伴類五人 名越(なごや)邊被刎首所謂、前瀧口榎本重兼、前右馬允宮道遠式、麻生平太範国、柴藤三郎、武藤五郎等也(和田義盛奉行此、事)吾妻鏡にあり
五郎の子孫当境内地に住み天文までその間360年13代位と思う。
戦国末期まで土地の豪族也。墓石発見により当境内地が屋敷跡と思う、即ち宝篋印塔12・3基外五輪塔と共20基ばかりあり。
御朱印高十六石・慶長8年9月25日家康公より
  慶長6年8月24日付けにて寺領十六石あるを認めて御朱印申請可出当役所に預かり置き申し者也仍如件伊奈備前守忠次(花押)  黒印書あり
慶長9年8月8日井出伝衛門(印) 御朱印高十六石地所再確認書あり
当時山主は三世秀虎和尚也
境内地底 38,000余坪(字菖蒲ヶ谷が全部なり)
総建坪630余坪 (絵図面有)
 
1. 梵鐘 殿鐘 明和5年10月    森町かなや
   (十三世泰吟和尚代)    山田七郎左衛門(印)代大田忠右衛門(印)
梵鐘は明治14年3月30日火災の時火が入りかなやに渡す
殿鐘は昭和19年7月戦争の為供出
1. 伽藍本堂再建 十四世春定和尚代  蓮華寺村 大工 常八 (印)
享和2年11月 164年前                八太郎(印)
1. 山門(薬医門)再建
天保10年3月7日願書 天保13年建立(1254前)
前薬医門は文化13年4月4日の大風雨にて大破により23年後なり
1. 御朱印状返上慶応4年 大洞院を通して12通(写しあり)
御朱印地上地高十六石と境内地2町5反 金領の上分水領より南西 
以北は未有山林 として置く 明治4年なり
1. 末寺宗松院 上川原 宝城院 廃寺(無住寺院に裁き)
明治5年なり
1. 当山焼失 山門を残し他は全焼す 火元伏間よりの野火により
明治14年3月30日      (東の谷民家11戸共に)
1. 仮本堂建築 森の梅林院の衆寮を求め奉り建つ 開創天文14年
再建249年 焼失
78年 仮堂78年 再々建85年後 現在
明治14年7月 20世玄智和尚代
1. 開山堂新築
昭和6年9月 25世鶴山代
1. 末寺中山寺合併
昭和23年 25世代
1. 本堂庫裡新築再々建築
1. 昭和42年3月 庫裡上棟
昭和43年6月 本堂上棟
昭和44年   完成
(鶴山61歳)本堂建築用材は欅材(千頭営林署)合天井板(小国神社)
外全部当寺の山林の木を用い時期の良い時に切りしものなり、屋根棟も本茸故300年以上持つと確信す
10世慧亮寛明和尚書に
  (当寺開創は古く天台にてもありなんかと書いた)
これは徳川幕府になり御朱印十六石戴いた故、徳川に敵対した武藤家より寄進の寺録であるならば没収される心配あり、開創後1560の人なればよく判明なるも如く認書せしならん、慶長8年の山主は3世秀虎和尚にて当山古くより寺領十六石ありとした。
これは秀虎和尚の政治的手柄なり 故に武藤家代々の墓石を隠しその替わりに現在開山の墓の後の丸二重石を開基の墓石として祭りたる。後250年にして再建本堂(14世代)に本堂の下に入れしものと思う。明治14年火災の時には土台石柱石等にしてあったため上部2寸位が焼け地に入り居りし部分とは色が違って居た、また仮本堂がその上に建てあること85年に今回新築の際、本堂下古土は全部庫裡方に移動し土堤の新土と入れ替えした時、宝篋印塔十余基発見し寺墓の次に整列せしものそれなり拙僧住職以来40年開基家の墓石を探し居り発見す、歴代和尚の墓は元亀以後の墓にて以前の寺墓なし 即ち歴代墓の所が武藤家鎌倉以降の墓地ならん、開山墓の後の丸い二重石を開基の墓として祭り来る。
また開基牌香勝寺殿興岩道清大居士、歿年月日なし徳川に遠慮してのことなり武藤家初祖五郎墓所は歴代墓所の上十間ばかりの町にて10世和尚知らずして発掘した、刀剣、土器、祭祠物あるも骨はなしとあり、鎌倉に刎首せられし故なり、始祖の墓にて其の下に12・3代ありしと思う。宝篋印塔、五輪塔にて20基は豪族の墓石にて農民にはなし
末寺玉泉寺記録 山号一鴨山
  開山 当山3世嘯山秀虎大和尚也隠居処となし
御朱印高参石  内・・本尊十一面観音堂領 一石五斗
              玉泉寺領として     一石五斗
即ち開創は慶長6年以前なり谷口鴨岡戸綿信徒なり、80年後の玉泉中興雪岩春好和尚代伽藍建てたものならん。
明治始めに本堂を縮小し現在まであり非常に破損した故、昭和43年7月森町道路事務所の建物譲り受け来り建築せし、本寺25世鶴山兼務住職也